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爽やかな一日がそのまま続き夕食は家人と二人きりで久しぶりに裏庭で採った。 青空の下で夕食を採るのは本格的な夏から9月の初めぐらいの天気のいい時でそれはすなわちヴァカンスの時期とも重なりいよいよ夏が来た、と気分が高揚するようでもあり、天気がいいこういう日にはたとえ裏庭だといっても少しはヴァカンスに出かけた気分にもなる。 夏にはキャンピングカーでヨーロッパのあちこちを走り回る近所の老夫婦も表で車を掃除して今年もその準備をしているのだがこれも毎年の通りだ。 こちらはというとまだどこに行くか決めていないけれど、子供二人とその荷物を詰め込んで喧しくせかせかと走るということももうなく、どこに行くにしてももう夫婦二人だけだからどうともなって楽だ。 そこで、どこに行きたいかと家人に水を向けると、何年か前に行きそびれたスロベニアのリュブリアナにしようか、ともいわれ、そうするとオートリアから山を越えていくのだからそれまでドイツで一泊か二泊、オーストリアにも一泊ぐらいキャンプするか道端の安いB&Bに泊まり、スロベニアに入ったらリュブリアナで4,5日それから地中海沿いの海水浴場のキャンプ地で一週間ほどいて戻るというのも可能性として浮かんでくる。 それとも去年のようにまたアルプスを歩くか、それともこの15年ほどそんなヴァカンスの時期に家にいたことがないからいっそのこと何事も面倒ならば家にいる、という選択肢もあるわけだ。 がらんとした町の中を自転車でぶらりぶらり走り日ごろは通り過ぎることはあっても入ったことがなかったような暇なカフェーに入りそこで新聞を読んだりそこいらの人と無駄話をしてもいい。 今週の土曜までには気温が25度以上まで上がり土曜の昼には家人の両親、娘のボーィフレンドの両親を呼んで一緒にここで昼食を採ることになっているからその献立のことや、この間家人が一週間ほどいない間に突然警察官が夕食事に来て銃の保管庫に入りきらない長銃を見つけ、それを収めるための新しい保管庫を買わないとそのうちそれをチェックに来た警官にしかるべき制裁が下る旨の報告がある等々のとりとめのない話になったりする。 食後、隣との垣根の若葉が伸びすぎてぼさぼさになっているから長さ10mに満たない垣根の頭を大きな鋏を両手にはしごの上で1時間ほど刈り取ってその葉や枝を紙の袋に詰め込んだらそれもこの何年もの夏の行事もなっていることを思い出し、そのうち紙袋が一杯になったものを2つ3つ車に積んで市の集積場にもって行くのもこの時期だ。 他の時期にはそうすることがないから集積場の印象にしても夏だけでしかなく雨のしょぼ降る秋や凍る冬などの情景も知る由もない。 そうしているうちに隣家から炭火を起こしてその上でBBQをやっている肉やソーセージの匂いも漂ってくるから否が応でも一層キャンプ場の雰囲気がいや増しだ。 食後にそういった肉の匂いが流れてくるのは食傷気味だから中に入ってテレビのニュースをみるとイランのテヘランで昨日大統領選挙のやり直しを願ってデモをしたその中の女性が銃弾に倒れた、YouTubeから引用された映像が出ていた。 あおむけに横たわり顔のあちこちから血を滴らせたその女性は携帯で撮っているそのレンズの動きに明らかに対応して眼球を動かせているのだがそれは画面を見る我々を追う目であり、彼女はその後すぐ息絶えたとニュースキャスターが伝え、それに添え、明らかに激動するイランの歴史の中で犠牲者のシンボルとして残るだろうと述べた。 そういえば1960年に安保闘争の時に東大の女子学生がデモの中で死亡してから彼女は運動のシンボルとなりその後長く追悼の行進が続いているが、それにもかかわらず果たして日米間の安全保障条約はその後廃棄されることもなく60年代70年代の経済成長、国益の名の下に今も継続され、日本もその後、朝鮮戦争の折に米軍をサポートする目的で設立された自国を守るためだけの実質軍隊としてそれを保持しないという理想憲法にも抵触しそうな戦力を保持、増強し、湾岸戦争後、国際協調として金だけ出しても有難がられないのに懲りて人も出せとその整備と法改定に向けて進む世の中、人はマラッカ海峡から先には関心がないように見える。 そのうち連合国の仇敵ドイツ兵さえアフガニスタンで死んでいるのだから自国もそれに続けと逸るタカ派が出てきているの違いない。 平和目的の兵はすでにオランダ兵と食堂もシャワーも共有するような実績を中東地域で上げている。 準備は整っている。 それにしても政教分離の原則、というのが民主主義の要にもなっているけれど30年ほど前にフランス型の国王を追放してパリからホメイニ師という年寄りを頭にして革命を起こしたイランがそのあまりに右に振れ国連の場で困惑するようなスピーチをし、狂犬的大統領と例えられる人の再選に異をとなえる新たな流れの中で保守の要、宗教上の最高指導者がその責任を問われているのだとコメントがある。 現に勝ったという現大統領は宗教府の審問を受けて表舞台から隠遁しているのだと言われている。 それに、保守、革新両方がアラーは偉大だ、とのシュプレヒコールを繰り返しているから革新派が政権を握ったとしてもそこにはまだ宗教府の大きな力が睥睨している。 だからそこには当分は多文化国家として他の価値観を共有するいう国は形成されないだろう。 すこし振り子が中ほどに戻るだけなのだろうが中間ということになはらない。 そもそも初めから中間というものはないのだ。 政教分離、政治の中に宗教を持ちこむな、でなければ民主主義でない、という声がある。 だからイランは民主主義国ではないと。 まてよ、日本の政治では戦後急に荒業で伸びた宗教団体が政党を作り今では自由と民主政治を標榜する保守政府与党が頼り、長く連立ともいえるほどの政府の一部ともなる勢力にもなっているではないか。 政教分離の原則は守られているとどこかで理屈をつけているのだろうが目を細めて遠くをぼおっとながめながら考えて瑣末なことを捨象してみるとどうも納得がいかない。 日本は民主主義国家なのかと世界に問うと否と言う答えは殆どかえってこないものの、それは近くに大国中国があるからで、この10年ほど世界中に著しく進出しているその強大でさまざまに驚きを見せ付ける世界の地の果てまで人を輸出してきた国のその力の裏に、アジアでいち早く西洋民主主義型資本主義技術立国の日本の中での宗教の影響などは何の程もないのだろう。 太鼓か木魚を叩いているくらいのほうがそのうち世界を制覇するぞと国を挙げて猛進する中華思想の国にくらべるとおとなしく無害なのだからとでもいうのだろうか。 そんなことを考えながらあと半時間ほどで日付が変わる頃、屋根裏部屋の窓から北の空を眺めると地平線のあたりはまだほの明るく天空は既に深い紺色でありながら広重版画あたりの夕焼けの色だ。 夕闇に沈んだ隣家の居間を見下ろすとそこではテレビを眺める人の姿もちらほら見えて深夜と夕闇せまるオレンジ色が一面に混在する今は夏至をちょっと過ぎた、、、、深夜というのか夕闇というのか、、、昔で言えば悪魔が出逢う「逢魔時」「大禍時」で、処変わればそのヨーロッパ版なのか、そういえばシェークスピアの「真夏の世の夢」での精霊が跋扈するのもこういう時かもしれない。 政治の鵺や悪霊などは古今東西常勤常駐なのだろうからそれがたまたま今、中東のアラジンのランプから外に出始めたというところなので、その点、日本の悪霊はうまく国民の大半を食い物と色気、子供の遊びで手懐けており当分は安泰なのだろう。 夏至が済んで陽が長くなったもののこの何日かは雨が突然降ったりそのあとカラッと晴れたりするさわやかな日が続き気温が18度ほどの,平均気温からは2,3度低い初夏なのだがあと3,4日すると24度ほどになるという今日この頃、夕食後8時のニュースを見てから裏庭に出ると9時前の南東の空に積乱雲が発達し始めておりこれはいい傾向だと少しは温度が上がる兆候を喜んだ。 少しはあちこちに変化のあるこういう気候では今日のニュースで見たようにヴェニスでも少々の洪水があったりあちらの方ではかなりの雹が降りそれが積もった画像に見られるようにまだまだこちらの夏は本格的ではないようだ。 家人がデイパックのポケットを整理していたら、こんなものが出てきたと言って出したのがマリファナ・ロリーだった。 食後だったので飴など舐める気もしなかったのだが、これはこの間、もう1ヶ月半以上前に家族でアムステルダムを散歩したときにウォーターロー広場で買ったものだ。 観光客も多いところに胡散臭いアンティークの店が並ぶ青空マーケットなのだがその中でドラッグ吸引パイプなどを売る店にあったものだ。 マリファナは数グラムまでの所持や吸引は許可されているのでどの町にでもある専門のコーヒーショップというカフェーに行けば買えるし、多分、合法のコーヒーショップ連に属する店でしか売買の許可が出ていないのだろうから当然この店では普通に売られるマリファナやハッシといったものも見られないけれど普通のマリファナを入れる小さなビニール袋にこの飴を6個入れて5ユーロで売っていたのを見つけどうせまがい物に違いないけれど面白そうだからと一袋買った。 マリファナは薬用として例えば癌末期患者に茶の葉として煎じ飲用することがあるから、そのように煎じたエッセンスを水飴に混ぜて固めてもこのようになるわけで、けれど、そうするとそれは薬用ドラッグと変わりなく、効き目があるかもしれない。 日ごろアムステルダムやロッテルダムの駅、繁華街などに漂っている緑の香りがこれから立ち上がってくるかといえばそうでもなく、どちらかというと茶の系統のハーブのようで、それを舐めている息子の言では「何か違う」とのことでそのうち一つまるまる舐めきっても別段ハイになることもなく、ああ、あの店のおっさんに舐められた、とそういうジョークグッズの自分の分はそのうち試してみようとそれぞれに一つづつ分けて自分の分を袋に戻したのだった。 金曜日は娘の当番なのだがあいにく卒業できて浮かれていて友達どもと遊びまわっているから今晩は息子がそれじゃあ、と南アフリカから留学してきた学生に習った現地の料理をやってみるか、と台所でガタガタやっていた。 屋根裏部屋で日本のニュースをネットで見ている鼻先に日頃とは違ったタイプの匂いが下から漂ってきてはて、魚ではないのははっきりしているけれど、さて、肉ならどんなものだろうか、多分羊が混ざっているのだろうと想像した。 肉なのだが大きな切れ目を脂で焼いたものではない。 多分鍋料理なのだろうがヨーロッパ系の匂いではなさそうで何か煮込んだような香りの様でもある。 下に降りたら鋳物の厚鍋が台所のシンクに空になって転がっているからそれで肉と野菜をいためて薬味を加えキャセロールに移してオーブンで焼いているようだと分かった。 それに細長くぱさぱさのインドネシア米にレーズンを混ぜたものを別鍋で炊いてある。 ちょっとオーブンでの焼き方が浅かったというものの薄っすらカレーの香りする黄色にインゲン豆の緑が対照的でそれは南アフリカの国旗の色でもあるのだけれど今晩はそこにパプリカの赤を加えてジャマイカのラスタファリアの色だと息子はのたまう。 ローリエとターメリック、それにナツメグに薄いカレーが混ざればこのようになるのだろう。 サワークリームに牛乳少々、ジャガイモかと見えたのは酸味の強い青りんご、グラニースミス、スミスおばあちゃんだった。 こういうキャセロールものの冬なら赤ワインだろうけれど夏の今なら同じく南アフリカの白ワイン、シャドネーがいいように思う。 南アフリカ観光局サイトのボボティー紹介コラム http://www.south-africa.jp/news/?id=00000054 2008年 6月 17日 (水) 一週間というのは早いものだ。 ただ一人だけ家に居る、というのも日にち、時間の感覚をなくすものだということが分かる。 特に何もすることもなく本や新聞、テレビ、ネットを眺めているとすぐに時間が経つ。 とりわけ夜中に起きていて朝が充分明けたころに寝床につくという暮らしをしていると一般の朝、というのが当方では午後の1時、2時という感覚になる。 天気がよければ庭にデッキチェアを出して、陽は当たるけれど涼しすぎないというところに寝転んで本を読んでいればじきに夕食の準備をしなければならなくなる時間になるけれど冷蔵庫や物置には2日3日買い物をしなくともやっていけるようなものがあるから一人だけのオサンドンなど高が知れていて、だからずるずると本の面白さに惹かれて普通の店が閉まる6時を過ぎていても、この時期いい天気であれば11時ごろまでぼやっと明るい夏だから夜ということもついつい心から外れ、取り立てて急ぐこともない、もし必要なら9時ごろまでスーパーが開いているじゃないか、というような気にもなり結局冷蔵庫の中をゴソゴソかき回し適当に喰えるものをつくり鍋を居間に持ち寄ってテレビの前で一人ぼそぼそ喰うといった態に収まる。 どうしたことか今まで約20年ほど、家族4人が毎日夕食の卓を囲んでいたのがこの1、2年でそれが3人になり二人きりになり、というようになれば卓を巡る雰囲気が大きく変わるものの、それでも一人きりで喰うとなると夕食社交性というような要素の最小限度、1というのが大きく質的転換をもたらすようで、とても一人で食堂の卓につく気もなくなりテレビディナーと成り果てる。 もし家庭になんらかの変化があり一人だけで住むとなるとそのときの日常の夕食の情景がここにある。 今朝、5時を回って寝床に入り、7時半に目覚ましを二つかけておいたのにそれがまったく耳に入らず目を覚ましたら午後2時だった。 それでも別段支障もあるはずもなく表を見たら車がない。 裏庭には息子と娘の自転車が置いてあり二人で家人をフリースランド州のハーリンゲンのフェリー埠頭まで130kmほど走って島から戻る家人を迎えに行ったのだった。 5時前になったのでそろそろ子供たちも戻るころでもあるしもしかしたら娘のボーイフレンドも加わるとなると一挙に5人分のおさんどんをしなければならないから、と算段して近くのスーパーに出かけひき肉を1kgと熟れたマスクメロンを一つ買って家に戻れば丁度車が着いたところで息子はそのまま友達と町に出るといって出かけ娘は、ボーイフレンドは風邪気味だからそれを看に帰るといい、家人は家人で遅い昼をさっき道々のレストランで採ったというのでそこで切れた私は、予め何故それを連絡してこなかったのかとその無神経さをなじり一人で食事を終え、そのあと家人と二人で市立劇場のコンサートに出かけた。 久しぶりの古典的な劇場でヴォーカルジャズを聴いた。 プログラムは8時半から休憩なしの約2時間だったから劇場側もこれを考慮してか各階の絨毯を敷き詰めたロビーに無料の各種飲み物をそろえて歓談の場を設けていた。 10時半といっても外は明るくとてもこのようなコンサートが済んだ後というような雰囲気にもならず二人で暫くそこで家人が一週間ほど過していた北の島での実験劇フェスティヴァルとでもいうような催しのことや近所のことなどをぼそぼそと話したりして、そのあとぼちぼちとまだ明るい中を家に自転車を漕ぐというのもこれでまた妙な気分がした。 丁度2年前の5月13日に次のように書いた。 こどもの頃からの記憶では個人のうちの前に国旗を掲揚するようなことはあまりなかったような気がする。 大抵は学校でなにやかやの儀式の折に講堂の正面に掲げられて校長の話の背景になっていたり、校庭で行われる朝礼の際のプロセスであったりした。 月日も場所も変わって、現在、うちの通りでも祭日にフランス国旗と見まがうような赤、白、青が横に縞になったオランダ国旗をかかげる家がいくつかある。 我が家では今まで国旗を掲揚しようというような話はなかったものの、この日、国旗とポール、それにそれを壁にとりつける金具が私に渡され表の壁にドリルで穴を開け金具を取り付けるよう家人から下命があった。 彼女は国旗や国歌にたいして若い頃から敬遠するそぶりをしばしば見せてきたものだからこれはどういう風の吹き回しかといぶかったのだが、考えてみると、多分、あと1ヶ月ほどで息子の卒業試験が来るからその結果に備えてのことかというところに想像がおちついた。 オランダでは子供が高校の卒業試験に通ると家の前に国旗を掲げてそのポールに子供の古いかばんや今ではほとんどの子供たちがつかっている背中に背負うナップサックとかデイパックというものをぶら下げて、その子供が試験に通ったこと、これから社会、大学に向かうということを知らせる習慣がある。 すべてがそうするわけでもないのだろうがこの時期になるとあちこちでこれが目に付くものだが、そうすると我が家もぼちぼちそういう時期になったのかと今更ながら感慨も湧くけれど、考えてみると、それでは国旗はまるでふるいカバンの添え物ではないかということになり、母親の情は国家というより子供に向いているという古今東西の常識に想いが至るのだ。 それから2年、今日娘がその試験に合格した。 全国共通高校卒業資格試験というものが5月の中旬から下旬にかけて何日かありそれが済んでストレスから解放された子供たちが皆あちこちに遊びに行って10日ほど経って発表というわけだ。 昨日が職業高校生の発表で隣の子供たちの家の前に旗が3本揚がり今日が普通、上級高校生の発表で、試験結果は2%ほどの落第した生徒には午後5時から6時の間に両親と本人が待つ電話に学校から連絡が入り、合格組みには同様に待つところに午後6時以降、ということになっていた。 4時ごろから息子に娘とそのBFが家に集まり始め残り物で焼き飯を作る私の周りで家人が作った果物をいろいろに混ぜたものに白ワインを加えて冷やしたパンチボールをひとしきり口にした後この何日かの出来事を報告しあっている間に5時になりここでは電話が鳴ったら不合格ということだから鳴らないように願い、しかしその間に馬鹿息子が悪い冗談で離れたところから家の電話をならして一瞬娘を凍らせた後、試験当日の夕にネットサイトで正解が出て得点はほぼ分かっているらしくよっぽどのケアレスミスがなければ98%大丈夫と分かっているから私は子供たちが嫌いな海老や茸をふんだんに盛り込んだ特製焼き飯とビールで安全圏に入った六時を過ぎて一同ぼそぼそと食事を始めた。 食事の途中で学校から連絡が入り合格したことを知らされ皆にハグされキスを浴びせられた当人は冷蔵庫に冷やしてあったシャンパンを開けて焼き飯との奇妙な取り合わせに乾杯したのだったがこれも第一関門でまだ1ヶ月ほどのあいだ志望大学の志望学部の抽選結果をまたなければならないのだ。 息子のように経済学部や文学部の歴史学科という大抵の文系や一般の理系にはほとんど制約がなく志望の大学、学部にこの資格で自動的に入学できるのだが医学部や特別な定員を設定してある学科では抽選がおこなわれる。 医学部の場合、まず志望大学、志望学科を第三志望まで決める。 今日から何日か以内に中央データベースにこら志望先と試験の各点数を入れ大学が設定した点数によるいくつかのランクに組み込まれ、上部のランクほど抽選確立が上で下部のランクになるとそのパーセンテージが下がるということだ。 つまり一般的には高得点の者ほど確立は高いけれどだけど落ちるものもいるということだ。 逆にランクは低くても通る者もいて全体からすれば教育的に相当ということで得点だけに狂奔するような風土をさけようとするようなことでもあり近所の息子は2年間不幸にも落ち続け第二志望なら行けたものを頑固にアムステルダム大学の医学部に固執したので3年目には自動的に採用されたということもある。 もちろん医学部専攻志望には他の学部以上に敷居を高くしてあるので今日の結果では医学部志望を放擲すればほぼ大体どこの大学、学部にも入れるということはある。 だから日本に比べれば受験「地獄」なり「戦争」なりというようなことはどこにも見られない。 せいぜいこの中高一貫校で自分の将来を決めるコースを選んできてその基礎準備能力をつけてきた結果の卒業試験であるから日ごろの勉強を少しだけある期間集中するということでたとえこれに失敗したとしても追試験もあることで多少新学期に入学のずれが出る程度だろう。 食事が終わりその後デザートからコーヒーにいたる8時前から娘の携帯はなりっぱなしだった。 それは友人、クラスメートの結果を互いに知らせるもので殆どが喜び合うものだったのだがその3,40人の中で家にも時々遊びに来て何ヶ月か前に娘と難病、多発性硬化症(MS)について共同発表した娘だけが不合格だったらしい、点数のばらつきによっては追試でカバーできるらしいのだが何週間か先の追試に向けて当分の間夏休みはお預けだといっていたようで、この国では落ちてもそれで首をくくったりどこかに飛び込んだりというようなことには間違ってもそういうことは起こらないし世界の終わりというようなものはここにはないのだ。 進路には幾つもの選択肢がありどんずまりというものはない。 実際、8時のニュースの中でもいくつもの高校の教師たちが忙しく各家庭に連絡し対応している様子が映し出されていた。学校によっては卒業生たちにインタビューしすぐに職業探しなり授業に組み入れられているインターンシップの縁で既に決まっている学生のうれしそうな姿も映されていた。 娘の第一志望はこの町の医学部なのだが私のひそかな希望はこの町を離れアムステルダムで生活しながら医学生になる、というものだが他の志望先でもいい、少なくとも50km以上離れた町で暮らし自立するというのが望みなのだ。 今日の午後、スーパーで知り合いのIT関連の専門家の婦人にたまたま出会い近況の立ち話をしていて彼女の娘の4年前の抽選のことに話題が行き、第一志望で外れ第二志望でも外れ、第三志望のグロニンゲン大学の医学部に入り結局そこに入ったのが今思うと最良の結果だったと本人が言っているというのを聞いた。 私が30年前オランダに渡ったというのはその大学の文学部で助手として働くことだったのでその大学の医学部の専門分野の幾つかは世界的にも有名で毎年日本から研究者とその家族がある期間住み着いているということも体験していて当時の助手クラスだった日本人研究者たちも今では大概日本に戻って教授になっているのだろうと想像する。 だからグロニンゲン大学でも娘本人はどう思っていようとも私や家人には思い出の町であり歓迎するのだが多分そうはならないだろうとその婦人に告げて押したカートを別々の方向に別れたのだった。 家人はニュースを見終わってからやおら予定表を取り出し皆に娘の卒業パーティーの日にちを設定したのだがギムナジウムの卒業式、パーティーが7月の3日にあり、二日おいて日曜日の午後から夜中すぎ、ということにした。 でなければこのあとどこでも夏のヴァカンスに入りこの町から離れてしまうし8月も中ごろになればもうそれぞれみんな新しい町に出かけてしまうということになる。 2年前には息子の例があるから同じフォーミュラでやればいいわけで昨日、今日合格した子供たちはこの日あたりにそれぞれ家庭で同じようなパーティーをやるからどれだけ社交性があり友達があるか、ということもこれでみられるのだけれど、家族、親戚、知人も交えて50人程度を見越しているようだ。 2年前に寿司を握ったり巻いたりしたものが好評だったからまた同じようにしてもいいし既に経験があるというのは実行するのに気分的にも時間的にも少しは楽になる。 娘は友人の関連で素人のロックバンドを呼びたいというから近所に予め夜中までの騒音がある旨知らせておかなければならないかひょっとして警察に届けておかなければいけないかもしれない。 この15年ほどで近所でライブバンドが演奏したことがないからもの珍しい近所の人にも招待状を出しておいたほうがいいかもしれないからそうすると数は一挙に100人を超えるかもしれない。 それは今のところプランであるから実際はどうなるか分からないがもしそうなるとすると私も皆に嫌がられるフリーインプロヴィゼーションでアルトサックスを5分ほど思いっきり吹いてやってもいい。 そうすると場は白けて蜘蛛の子を散らしたようにゲストは家に、別のパーティーへと散っていくに違いない。 久しぶりに一人でハーグを歩いて目的地のギャラリーに向かう途中、女王の執務室、ノルデエインデ宮の正面に出た。 宮殿といっても世界の一流店が軒を並べる古い大通りを歩いていくとそれが急に途切れ、あれ、官庁か何かの建物かと見ると前面を柵に囲まれ小さな広場として少し奥まってス石造りのバルコニーのある建物がみえる。 それが女王の執務室の建物で、住居はここから車で10分ほどのハウステンボス宮からおりにつけ通うというところであり国家予算を発表する九月の第三火曜日にはこのバルコニーから王室の全員が国民に姿を見せ手を振るということがあり、その後、ここから国会のあるビネンホフまでナポレオンスタイルのような華麗な行列で500mほどの距離をきらびやかな金の馬車で向かい、騎士の間では新年度の演説をする、というしきたりがあるところだ。 その演説内容は内閣とのすりあわせが施されているから政治に介入せずの原則が守られていて元首としての体裁を保っている納得のいくもので経済、福祉などには個人的な穏やかな関心を述べるということはある。 定期的に首相の報告を受けていて現ベアトリクス女王は歴代女王に比べると国政に理解が深いといわれており隣国の王家に比べても子供たちの教育にも卒がなく、また隣国にみられるようなスキャンダルも王室になく国民から尊敬をもって慕われているようだ。 1980年に母親、ユリアナ女王から王位を受け継いで長男の皇太子も今は王女を3人もうけ中年ともなりそろそろ退位か、というような声もときどき聞かれている。 今年の女王の日、これは母親ユリアナ女王の誕生日、4月30日を国民の祝日として女王が各地を行幸するのが慣例で、ことしはユリアナ女王の住居だったアッペルドールンでの行幸の際、一人の男が黒のスズキ・スイフトで女王を初め王族の乗るリムジンバスを掠めて突撃したいきさつもあり通行人を撥ねて殺し自身も記念碑に追突してその後死亡するという事件がありそのとき犯人の最期に及んで警官が王族の乗るバスに追突目的でその意思を確認したということが報じられておりその犯行の模様が何度もテレビやYouTubeで流されていた。 この犯行の裏には組織的、思想的なものは見られないと公式発表されている。 もう15年ほど前、国家保安局に勤める射撃クラブの知り合いが我が家を訪ねたことがあった。日ごろのゆったりとした服装と違い三つ揃いのスーツにネクタイで同じようなもう一人の男を同行していて予め連絡があったように一枚の手紙を私の目の前に差し出したのだった。 オランダ国、ベアトリクス女王宛の書簡で日本語で書かれているから当時同じく射撃クラブの古いメンバーの息子が近衛兵として女王の書簡運搬係というようなこともありそれがこのように推移した事情なのだろう。 だからたまたま知り合いで日本人だった私のところにその翻訳を頼にみ来たというわけだ。 そこには日本人によって書かれたと思われる誤字のない日本語でありながら話の筋も脈絡もない、伝えたい内容さえないような奇妙なものだった。 翻訳をしようにも外国人にみられるような助詞などの文法の誤りもないにもかかわらず完全に分裂した文字の羅列で意訳もできず、ましてそれを逐語訳しても更に分からずそのようにこの手紙のことを説明し、二人はその旨を記したメモを添付して引き上げたということがあった。 国家元首に対する書簡はあて先には届くけれど実際に宛先に届くまでにはさまざまなフィルターがありこれはそれに引っかかったものだったのだろう。 書簡は全てしかるべき部署に保管されその内容によっては犯罪要件を満たすこともあるからこのように調査する必要もあるのだろう。 現女王の一家はオランダ救国の父、ヴィレム1世 (オラニエ公)の子孫であり安定した国情であるから第二次世界大戦の折には難を避け現女王の祖母ヴィルフェルミナ女王がロンドンで臨時政府、母親ユリアナ王女と自身はカナダに住んだ以外は現女王はアッペルドールンで育ち、即位してからはハーグのはずれハウステンボス宮に居を構えていて国際政治、国内政治の近傍で職務を遂行している。 ここ3代女王が続く中で、ベアトリクス女王退位のあと皇太子ヴィレムアレクザンダーが1890年死去のヴィレム3世以来一世紀以上を隔てて男子の国王となる。 もう20年以上前パリでロダン作、バルザックの像を見たときにマントに包まれたその姿に感銘を受け、またそれと同じものがオランダのタバコで栄えた町の現代美術を集めたあまり大きくない美術館の前に建っているのをみてそこではパリのように高い石の台の上から睥睨しているようではなくマントに包まれた姿がより近くに見えて一層感銘をうけたのだが、ここ女王の執務室の正面、ウバメガシか栗の大木がある小さな広場の奥に直立する、ほぼ円錐形の老婦人の銅像にも柔らかな親和力と威厳を感じるのだ。 父ヴィレム3世の死後10歳にして女王となり若いときのポートレートはその娘、ユリアナの若いときのとそっくりな典型的なオランダ婦人の姿であり、ここに見る第二次大戦直後、60歳半ばを過ぎた姿は今も記録映画で見られるオランダ解放後各地を巡り、1953年のぜーランド州の大水害のときに現地を見舞った姿を髣髴とさせるものだ。 像の後方、石塔には Eenzaam maar niet alleen (孤独だが一人きりではない)という、祖国を離れロンドンから放送で国民に向かって祖国の自由を取り戻すために語りかけたその心情を綴る言葉の前に立つ老婦人の姿は親しみのわくものだ。 私はこの30年ほどでここを4,5回ぐらい訪れている。 この像は1968年に制作され作者は シャーロッテ・ヴァン パランド男爵夫人、Charlotte Dorothée barones van Pallandt (Arnhem, 24 september 1898 - Noordwijk, 30 juli 1997) である。 この人は若いときから美術、像形に優れ現女王の若いときには像形の手ほどきをし同じく美術に造詣の深い現女王は今もその製作を続けているということだ。 どの町にもあちらこちらにさまざまな像が見られるなかでハーグは国際外交都市、オランダの政治の中心として独特な雰囲気をもっており、この国の歴史が比較的小さい空間の中に詰め込まれているように感じるのだが20世紀のちょうど半分に生まれた自分が、この人の、20世紀が始まる10年前からちょうど20世紀の半分まで2年を残して女王として生きた婦人の像に対峙するときバルザックの風貌とは違った静謐な威厳を見る。 とりわけ王宮広場の奥まったところ、大抵周りに人が誰も見えない場所にポツリと一人立つ姿は我々に王と強い母の姿を合わせて見せるようで、ここでは国の母、祖母の威厳には男の元首に見られる武張ったものは必要がないようにも見えるようだ。 ウィキぺディア; ヴィルヘルミナ (オランダ女王)の項 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%8A_(%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E5%A5%B3%E7%8E%8B) オランダ版ウィキぺディア ;Charlotte van Pallandt の項 http://nl.wikipedia.org/wiki/Charlotte_van_Pallandt 出かけて戻ってみると庭の芝生の上にテントが張ってあった。 これは家人がまだ貧乏芸大生のとき、もうかれこれ30年以上まえに買っていたものだ。 ヨーロッパの若者の例では大抵高校のあたりから国内、隣国、それからもうすこし距離をのばし海を渡ってあちこち出かけるようになるのだけれど当事は今と違って大抵学生は資金の余裕もなく出来るだけ安く上げるため自転車を漕ぐか鉄道の安い割引チケットで長い夏休みにはあちらこちらと出かけていくのが普通だったけれどそれにはテントは必携品だった。 ホテル代にする金があればそれだけ遠くに行くとか長く滞在出来るから自然と若者の旅行の仕方は自分の足であちこちで歩きテントを張って行った地元の店で物を買いキャンプ場なりどこかの草原や森で寝泊りしてそこで煮炊きをし次に移動するという形をとった。 30年も前にはまだあちこち村はずれなどには余裕があって今のように自由なスペースが少なくなり必ず決められたキャンプ地に設営しなければならない、ということはなかった。 もちろん当時はどこでもそういう公営私営のキャンプ場所があちこちにあるというわけではなかったので時には農家の大きな納屋や庭に泊まらせてもらえることもあったけれど皆、大抵、森か湖川の畔に設営するのを常としていたようだ。 私たちが知り合って一緒に旅行し始めたときにはこのテントは重宝した。 自分の顎ほどしか高さのない少々低く狭いスペースでも体にはまだ柔軟さがあって今と違って何度も体を折り曲げたり捻ったりして出入りしても何の苦もなかったしそのころはまだ子供もおらず二人には金はないけれど時間はいくらでもあった毎日だったから夏にはフランスやドイツの田舎をボロボロの車であちらで3日こちらで5日と気ままに移動しては2,3週間のヴァカンスを過ごしていた。 けれど子供が出来ると様子は変わる。 生活でもそうだが特にバカンスでは子供中心の夏休みとなり、この二人用テントではとても小さすぎるし動きに不便がでるから義父から引き継いだ1950年代から使っていた家人の家族5人用の旧式の重いカンバス地のテントがバカンスの棲家となり、この2人用のテント一式を入れた小さなバッグは非常用として車の隅に入れられることとなっていた。 子供がまだ一人だけでよちよち歩きのときは4日、5日と場所を変え移動するのも苦にならないものの子供が二人になると事情が変わる。 下の子供がまだ歩き始めで上の子供が幼稚園のころにはまだ大きなテントでも支障はなかったけれどそのうち子供がもう少し大きくなるにつれ移動と子供にかかる手間からテント生活には不自由が出てきて安心して他の子供たちとも一緒に森や湖水で遊べ適当に地方の観光地を訪れられるようなバンガローを借りて2,3週間もしくは一週間ごとに移動できるようなベルギー、オランダ、ドイツ、フランスあたりの田舎で過すような夏休みとなった。 そんなバンガローではテントの設営の手間もいらずテントの狭い空間に生活道具を散乱させ慣れたらたたんで移動ということの手間から解放され、シャワー、トイレ、キッチンに台所道具一式、おまけにその下をまっすぐ立って歩けるような屋根がついてというような小屋を使うようになり、子供が小学校の高学年から中学校になると家族で近隣諸国の田舎の町外れに借家をさがし、そこから足を伸ばして山野を歩けるようにそんなところの一軒家を三週間ほど借りてそのころにはそろそろ子供たちも自分で自由時間を使うようになるしそれにつれて親たちにも自由時間が増えるようになるのでバンガローでは少々小さすぎるということにもなっていた。 小学校高学年から高校になると子供たちは自分たちの友達とキャンプにも行くようになっていたけれどそのときには古いカンバスのテントはチェロキーというインディアンの勇者を描いたロゴマークだけ切り取ってあとは廃棄処分となっており子供たちにはまだこの二人用のテントを設営し解体、折りたたみが出来るほどの技量もついていないから集団キャンプの際、大勢で寝泊りできるものをキャンプのインストラクターから習って徐々にテントに慣れていき、この10年ほどは車に乗せて持ち運ぶ5人用のテントも時々使っていた。 こちらのほうは子供たちが高校に上がるに連れて夏には地元のホッケーの泊りがけの遠征試合やいろいろなキャンプで遠出するときにはしばしば使われ子供たちはこれの取り扱いはできるようにはなっているが二人用テントには手を触れなかった。 5人用のテントはあるけれど不思議なことに家族4人でこのテントを使ったことはないのではないか。 子供たちがある程度の年齢になったとき普通のヴァカンスで出かけるときは家族四人でも大抵は借家だったから大きいテントは要らずヴァカンスの他に泊りがけで4人ででかけることはなくなっていたのではないか。 誰か一人が抜けて3人で出かけ泊まることは何回かあったようだが大抵は2人でゆったり大きいテントを使っていたようだ。 去年家人と二人でアルプスをあちこち車で走り山を歩いた折、フランスとスイスでキャンプをしてそのときに5人用テントとこの2人用テントを使ったことを思い出した。 去年は雨に降られたことが一度もなかったからテントの中で食事を作るということもなかったし濡れたままのテントを翌朝畳んで次の土地に移るというようなこともなかったけれど私が鼾をかくのに苦情を言われ非常用のこの小さなテントを横に張りそこで眠ったということがあった。 けれどそれも初めのフランスの3,4日でスイスのダヴォスの何日かはキャンプ場の土地が土の少ないごつごつとした地面で一つ張るだけでうんざりだったから仕方なくテント内の煮炊きをしたり物を置いたり出入りするスペースを挟んで2人用の小さなスペースが仕切られているそこで寝た記憶があり、けれど草が生えた地面のやわらかいフランスのキャンプ場では眠るときはごそごそと背中を曲げ小さなテントにもぐりこみこれを使うのも久しぶりだと思ったものだ。 家人が庭にこのテントを張ったのには理由がある。 もうそれぞれ孫のいる家人の2人の妹たちと一週間ほどオランダ北部、北海に弓なりに点々とある島の一つ、普段は人口5000人ほどのところにこの時期、実験的芝居、見世物、音楽などがある恒例のフェスティバルにでかけるとかでその準備なのだ。 ミシン目に沿って防水の樹脂を溶かしたものを塗って様子を見るといっている。 その島にはこの時期、そのイベントのために島民の10倍ほどの観光客が押し寄せもともと島には車を入れさせないことになっているから大抵はフェリーに自転車で渡ってキャンプするのが大方だそうだ。 ここまではもう一週間ほど前のはなし。 このテントは今はもう島のキャンプ地に張られ、この2日ほどの雨交じりの少々寒い鉛色の空の下で雨水を弾きまだ勤めを果たしている。 娘はまだ当分クレタ島から帰らず、家人は妹たちと島でキャンプ、息子は町のどこかで何かをしているのかこの時期土曜日だけは晩飯を食いに戻り、私は一人でいつものように何も特別なこともせず一人ぶらぶらしている。 井沢元彦 著 猿丸幻視行 第二十六回(S.55年度) 江戸川乱歩賞受賞作 S.55年十月二十五日 第四刷 講談社 ひょんなことから日ごろは読まないミステリーとかSFの類に入る本作を読む気になったのはオランダに住み始めて何かの折にこの本のことが目か耳にはいっていてその記憶の断片から、特に「猿」「幻視」という文字に惹かれていたからだろう。 読み終わってから末尾を見ると本書は江戸川乱歩賞の発表作として単行本に装丁されたものらしく賞の沿革、それまでの受賞者リスト、選考過程、当作に対する各選考委員の選評が載っており剣豪作家だと承知していた南條範夫の評が本作を一番コンパクトに評していると思い、同時にそれまでにあまり読んではいないが日本を出る前に読んだ「戒厳令の夜」の著者である選考委員の一人、五木寛之の評にも五木らしく文章については評価するもののどちらかというと謎解きにはあまり深く興味を示さない気質が出ていて、それでも本作の文学、歴史の謎ということでは「戒厳令の夜」でも第二次大戦末期のナチスによって隠された美術品(埋蔵金と言い換えてもいいだろうが)と三人のスペイン系の三人パブロ(カザルス、ピカソ、ネルーダ)をも加えたところに少々の謎とアクションを按配した作は幾分か本作との共通項を持つようでそこでもその発表時期の1980年という時代を感じた。 奈良は私の気に入りの都であり子供のころから何度も足を運び今でも折に触れ機会があれば訪れる所なのだが一番印象に残ったのはもうかれこれ45年ほど前に亀石、鬼の雪隠、飛鳥板蓋宮、蘇我入鹿の首塚、飛鳥寺、雷の丘というあたりを田圃をあちこちに見ながらレンゲソウの咲くころに歩いたことだ。 飛鳥寺とその大仏のぶっきらぼうともおもえるような簡素な佇まいに驚いたことを今でも覚えている。 古典は苦手だった。 第一、日本語でありながら読めない、読めても意味が分からない、気短で辛抱のない自分は分からないものには疎ましさを感じて努力は最小限度にとどまっていたように思う。 高校の古文、漢文が中途半端だったからそれは今にも続いていて苦手だ。 ほぼ外国語なのだ。 けれど、古い詩歌などには少々の興味がありポピュラーな万葉秀歌は読んでいたし長い休みには百人一首を覚えさせられそれが古文の試験に加えられたこともあって大抵は忘れたもののまだいくつかは記憶にある。 当時京都芸大学長になった梅原猛の「水底の歌 - 柿本人麻呂論」はよく書店で目にしたが購入しようとは思わなかったし人麻呂についてもとりわけ興味があるわけではなかった。 釈超空のものは読んだことがないけれど折口信夫の「死者の書」で西方浄土、入日について、二上山と当麻寺、中将姫などの論というか創作というかそういう文には目を通していた。 地元の山に近似した二上山には上った折にはそこでは大津皇子墓の記憶とそのころの政争、悲恋にまつわる話を聞いたこともあり本書の近傍資料として読み進みながら当時を思い描くことが出来たのが懐かしくまた当時の政争に絡む様子を歌や文に組み入れられた謎解きのからくりが作者のもっとも力の入った作業だと理解したがそれに費やすエネルギーに比べて傍証として登場する人々の輪郭が早急すぎるように感じた。 それは南條が指摘する山中峯太郎、東條英機、南方熊楠に関してなのだがその歴史的価値に比べて折口との接触風景があまりにもそばを通り過ぎる通行人としてしか描かれていないということに現れている。 歴史の謎に光を入れるSFものとしては仕組みが単純なように思うしでっち上げるにしてももう少し張ったりの利いた医学、薬学、物理学的説明があってもいいように思うのだがそれは歴史的叙述と比較していえることで多分これは全てが解決してからのエピローグの短さ、あっけなさとも関係しているのだが枚数制限の故だったと解釈して28歳のミステリー作家のものとしてはこのジャンルでは後まで残る作品だろうと思うし現にほぼ30年たってからでもその謎解きを日本の反対側で楽しませるものであることでそれを証明しているだろう。 本書283頁のホンワリとしたイラストが本作の雰囲気に合わず思わず苦笑した。 この何日かでEU内の各国で選挙がおこなわれるのだけれどオランダは他の何カ国かと4日ほど前にその第一陣として投票が実施されその結果、予想されたように低投票率の下、極右政党が議席を伸ばした。 もうそろそろ30カ国に届こうかというEUの大所帯、富んだ国とEU内後進国との格差が避けられず旧東欧諸国のように共産国家から離れアメリカの下、資本主義に邁進するためには社会資本、遅れたインフラ整備のために資本の投入が急務であり、さまざまな給付金なり割り当て金は多くそれらの国に行きがちであってそれらの資金はEU内の安定国から本来なら満遍なく配られるはずの税金が不均等に割り当てられる、ということの声がいつも聞かれている。 けれどそれは将来に亘っての安定国からの資本投資であるから穏やかに還元されるという見通しもあるのだけれど今の時期、金融危機に端を発した経済不況下では社会の比較的下層、地方の老人たちから不満が噴出してこのほうな結果になったという分析がなされており、選挙後の各党党首のテレビ会談では一層極右の声が大きく響いて労働党、社会党、社民党、緑の党などを一括して知識人の能天気グループとまで罵倒される始末なのだ。 多くは冷静に通常のEU政策議論を続けようとするが始めからそれに耳を貸さない極右の党首は躍進頭の鼻息の荒さでまくしあげ勝者の驕りに声援し捲し立てるものが今まで押さえつけられていたところから日の出るところに現れた勢いにメディアも乗っているように見受けられる。 これによってオランダ国会の情勢が変わるということはないのだがメディアの煽たてるような報道に政治に関心の薄い層が今まで国会でことごとく罵倒され揶揄されていた、当然その理由はあるからそうなるのだが、いくらキリスト教民主党の首相が将来に亘って憲法つまり国是に反するような主張を繰り返す愛国党との連立はありえないと述べてもそれは将来の選挙の結果、保守党との連立があれば可能性のないことはないのだ。 この党首は2ヶ月ほど前かにイギリスに遊説する時に出かけたのはいいがその主張がイギリスの国是に合わないとヒースロー空港で入国を拒否されそれもヨーロッパのニュースとなり、それに加えて奇妙なことに、表現の自由を標榜するヨーロッパ憲章にイギリスは違反するとしてオランダ外務大臣が英国に抗議するという捩れた現象まで起こった経緯がある。 イギリスの議会は今、議員、大臣の必要経費を不当に計上したというスキャンダルでゆれており、別荘の庭にある広大な池の清掃費、ポルノヴィデオの購入費、抵当支払いが済んでいるのにもかかわらず何年も依然として支払っているなどの不正が次々と露になり次官、大臣まで辞任に追い込まれているさなか、労働党党首の首相の辞任は時間の問題と取りざたされている中、ヨーロッパ議会の選挙に関してはオランダの例も知られている折、当然保守党が多くの議席を占めると見られているようだ。 大抵これらは数多くある経済移民の違法滞在問題とモスリム排斥が絡んだ愛国的な主張であるのだがEU統合を標榜するなら避けられない問題をただ排斥だけで解決するという単純な主張が失業者が増える中で社会不安が蔓延しつつある状況ではムッソリーニを目指すかのようなベルルスコーニのイタリアに慢性的にあるように右傾化の波が一層高くなる。 第二次大戦のヨーロッパ解放の端緒となったノルマンディー上陸作戦のD-Dayを記念して戦勝国の元首がそのノルマンディーに集まって式典に参加したのだという。 旧敵国のイタリアもドイツの元首も当然招かれず、主催者フランスの大統領はオバマ新大統領と二人だけで写真に納まろうと画策したのかイギリスの元首エリザベス女王を招待しなかった。 これに対してイギリスは憤りを表明し息子のチャールズ皇太子が参加して決着を一応つけたようなのだが、このように世界中古今東西にみられるような政治家の綱引きがここでもみられて興味深い。
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